ヘッダーメッセージ

「ダライ・ラマに恋して(たかのてるこ)」という本はオススメ!

<金曜は本の紹介>

「ダライ・ラマに恋して(たかのてるこ」の購入はコチラ

 「ダライ・ラマに恋して(たかのてるこ)」という本は、著者のたかのてるこさんがチベットを旅した旅行記です。

 チベット仏教の教えや、前世を覚えていた少女、ダライ・ラマに関すること、ダライ・ラマと会うまでについて詳しく書かれていて、自分にとっても大きな影響を受けた本です。

正直に申し上げて、あまりにも自分の心に響き、なかなか読み進めることできませんでした。

そのため、この本はめずらしくゆっくりゆっくり2週間ほどかけて読みました。

特に、何事も変化をし続けるもの、執着はしない方が良いこと、自分に原因があること、今の瞬間・瞬間を楽しむべきだと改めて思いました。

とても、とてもオススメな本です!

以下はこの本のポイント等です。

・私が一番興味を持ったのは、ダライ・ラマ14世の生い立ちだった。ダライ・ラマは、政治・宗教両面のトップに立つチベットの法王で、14世という名前が物語るように、今までに13人のダライ・ラマが存在した。フツー、権力を手にした王さまは、その王位を我が子に譲ろうとするもの。ところが、「ラマ」はチベット語で「僧侶」を意味する言葉であり、ダライ・ラマはキングであると同時に僧侶なのだ。なので、歴代のダライ・ラマはチベットの僧侶がたいていそうであるように独身だし、もちろん子どももいない。では、いったい誰が”ダライ・ラマ”を引き継ぐのかというと、ダライ・ラマは「生まれ変わる」とされているのだ。ダライ・ラマの自伝や映画で、私が最も驚いたのはこの、「ダライ・ラマは世襲ではない」という点だった。世襲も何も、本人自体が生まれ変わっているんだから、”本人が本人の後を継ぐシステム”といえばいいだろうか。ダライ・ラマは、私たちの常識ではちょっと考えられないような、神話的ともいえるユニークなシステムで選ばれる。先代のダライ・ラマが亡くなると、遺体の状況やチベットの伝統的なシャーマン(神託を告げる人)のお告げから、ダライ・ラマの生まれ変わりである”霊童”が生まれたであろう方角を判断し、探索が始まるのだ。今のダライ・ラマが捜索隊に見つけ出されたとき、彼は地方の農民の息子で、「テンジン」という名前の男の子だった。映画「クンドゥン」でもその場面が描かれていたけれど、霊童の候補が見つかると、その子に先代の遺品を当てさせるテストを行うことになる。転生者である霊童が、前世の品物や人々を覚えているのは当然のこととされているのだ。当時、テンジン少年はまだ3歳にもなっていなかったのに、先代が使っていた数珠や太鼓などを他の人が使っていたものといっしょに見せたところ、ピシャリと先代の遺品を言い当てたのだという。

・そもそも私たちが苛立つのは、望みが叶わないからです。しかし、その結果イライラしつづけても、望みを叶えるのにはまったく役にたちません。そうして私たちは望みが叶わない上に、機嫌まで悪くなります。今苦しんでいようと、過去に苦しんでいようと、気持ちまで不幸になる必要はありません。

・いかなる逆境に陥ろうとも、また、いかなる災難に遭遇しようとも、すべては束の間のことであると考えるように努めてください。水たまりのさざ波のように、それらは、生じては間もなく消えます。私たちの人生は問題が繰り返し起こり、終わることのない定めなのです。一つの問題が現れては過ぎ去りそして間もなく別の問題が始まります。

・私たちが自分について抱くイメージは、つい独りよがりになりがちです。自分を見る目は甘くなります。何か不愉快なことが身に降りかかってくると、いつでもそれを他人や運命、悪魔や神のせいにする傾向があります。ブッダの勧めに従って、自分にその原因があると考えようとは決してしません。

・意識しているかどうかに関わらず、私たちの人生には一つの大きな問題が横たわっています。それは、「人生の目的は何か」ということです。生まれた瞬間から、すべての人間は幸福を望み、苦しみは望みません。生まれ育った社会環境がどうであれ、受けた教育がどうであれ、イデオロギーが何であれ、このことに変わりはありません。私たちは心底、満足を望んでいます。ですから、最高の幸福をもたらすものが何であるかを見つけだすことが大切です。

・ダラムサラではときどき、フツーの外国人旅行者でもダライ・ラマと謁見できる日があるらしく、握手してもらえるうえ、運がよければ一言、二言の言葉を交わすことも可能だというのだ。「雑誌、新聞等の取材のためのプライベートの謁見は、数ヶ月前にダラムサラのPrivate Officeか、日本のダライ・ラマ法王事務所に申し込まなければならない」なんと、日本にダライ・ラマの事務所があるとは!

・チベットの都、ラサの空港に着いた途端、私は目の前に広がっていた光景に目を見張った。360度、どこを見渡しても間近に迫ってくる山々。容赦なく照りつけてくる強い陽射し。今まで見たこともない深い青色の空。標高が3650メートルもあるせいか、やたらと空が低く感じられ、チベットに来たんだなぁ!という実感が湧いてくる。

・だが、ラサで何よりもショックだったのは、ホテルのある旧市街から少し離れると、いきなり雰囲気が変わり、ネオン輝く歓楽街になっていたことだった。大通りには、漢字の看板がでかでかと掲げられた大きなデパートや映画館が所狭しと立ち並んでいて、いかにも中国の地方都市という雰囲気だ。

・自由な旅ができないことも悲しかったが、それ以上に私の胸を締め付け、重苦しい気分にさせていたのは、チベットでは「ダライ・ラマ」という言葉を発することも許されないことだった。もちろん、ダライ・ラマの写真を飾るなんてもってのほか。チベットは、「ダライ・ラマはいない」ことになっていた。

・おっちゃんに聞くと、一人一泊2食付き、200ルピー(約540円)、ガスの暖房を使うのであれば300ルピー(約810円)でいいとのこと。レーの中心から少し離れたところにあるおかげで、料金も割安であるらしい。

・「ラダックに住んでいる仏教徒で、ダライ・ラマの写真を飾っていない人なんていないよ。僕の名前だって、ダライ・ラマの本名、「テンジン」と同じなんだもの」「うちなんて、息子の名前も「テンジン」なのよ。もともとテンジンはよくある名前なんだけど、ダライ・ラマにちなんで名付ける人が多いから、ラダックはテンジンだらけよ」イスラム世界でも、預言者である「モハメッド」にちなんで男はモハメッドだらけだったけど、チベット世界でもそれは同じであるらしい。有り難い存在の人にちなんで名前を付けるのは、世界共通のことなのだ。

・「チベット医学では、たいていのことは脈をみるだけで分かるんだ。脈は、体からの電話みたいなモノだからね」脈は、患者と医者を結びつけるメッセンジャー的な役割を果たしていて、その打ち方には80種類以上もあるというから驚きだ。

・「ここには、メンタルの病気にかかる人がほとんどいないんだよ。日本には、西洋の国と同じように、心の病気になる人が多いんだろう?ストレスの多い社会だと、いろんなことを考えすぎるからね。ここで暮らしている人たちは、たくさん考えるよりはたくさん祈るから、心を平安に保つことができるんだよ」

・「それは違うね。きみは、両親の死が怖いんじゃないよ。親の死を恐れているというよりは、親が亡くなることで、自分が不安定になることを恐れているだけだよ」「悲しくなるのは、自分が不安になるからでしょ?関心は自分に対してだよ。てるこの関心は、親の死よりも、自分自身にあるんだ。それは、変わりゆくものを受け入れようとしない、執着心からくるものだよ」

・「仏教の教えでは、「執着ほど苦痛をもたらすものはない」とされているんだ。そりゃ僕だって、親が死んだらもちろん悲しいよ。でも、親が死ぬことを悲しむよりは、いつかその日が来ることが分かってるからこそ、日々感謝することの方が大事なんじゃない?」そうか、「執着は苦痛をもたらすもの」とされているから、チベットでは一夫多妻とか一妻多夫という結婚形態を取っても、それが焼きモチに繋がらなかったかもしれないな。

・シャナースの享年は10歳。デルダンに生まれ年を聞いてみると、今10歳のデルダンが生まれたのは、シャナースの亡くなった年の翌年のことだった。

・私はその写真を見て、胸がどきん!と波打ち、鳥肌が立ってしまった。シャナースは、デルダンに瓜二つだったのだ。

・初めて家に遊びに来たとき、デルダンはまるで自分の家に戻ってきたかのように家中のことが分かっていたのだという。デルダンは、シャナースと弟が使っていた子供部屋に入ると、「ああ、これ、私のおもちゃ!」「私のスクールバッグ!」と言ってシャナースのものに触れ、そのしぐさや振る舞いがシャナースとまったく同じだったのだとお父さんが話してくれる。「私たちはその姿を見て、彼女がシャナースの生まれ変わりであると確信しました。父として、娘にまた会うことができて、とても幸せです」

・遺伝子的には、私の体は両親から来てるんだろうけど、精神というか魂は、別のところからやってきたのかなぁって考えちゃった

・「人は、厳しい状況の中にあった方が、より多くのことをより深く学ぶことができるんだ。カルマは、あらかじめ自分の人生のすべてを、プログラミングしているモノではないんだよ。自分が毎日、今この瞬間から、プログラミングしていってるモノなんだ。生命が永遠だということを思えば、僕たちの行いに原因があって結果があるということは、とっても前向きなことでもあるんだよ」そうか、カルマは乗り越えることができるし、変えることができるモノなんだ!

・「恋愛だってなんだって、自分の身に起きたことの原因は自分自身にもあるんだ。きみがこれまで考えてきたことが、きみを今の環境に導いてきたんだよ。環境が人を作るんじゃないんだ。環境は僕たちに、僕たちがどういう人間なのかを教えてくれているだけなんだよ」「変わっていくことを、どうして悲しむ必要があるんだい?それは、いいことでも悪いことでもなく、事実なんだ。自分だって毎日少しずつ変わり続けているように、相手だって変わり続けているだけの話だよ」

・「お寺ではいつも何を祈ってるの?」私がそう聞くと、カルマはなんの迷いもなく言った。「生きとし生けるものの、すべての幸せだよ」思わず、ウームとうなってしまう。ラダックで人にそう尋ねると、みんな口をそろえて同じことを答えるからだ。「世界が平和になれば、きみも自動的に幸せになるよ。どうして自分ひとりだけ、幸せになろうとするんだい?きみと世界中の人の幸せは繋がっているんだよ」

・「その、人間にとって、一番大切なことは何だと思いますか?」ダライ・ラマ法王が、野太いオペラボイスで、ゆっくり質問に答え始める。「幸せな人生だと思います。幸せな人生を送るには、物質的な便利さだけでなく、優しい心が必要です。感情的にならないように注意し、他者を思いやる心を持ち続けながら、お金を稼ぐ。日本人のようにね」「ですが、お金を稼ぐにしても、間違ったやり方ではなく、誠実なやり方でなければなりません。働きながらも、他者を思いやる心を忘れない。そうすれば、人生はもっと豊かに、もっと完全なものになるでしょう。そのように心がけることで、人生はより意味のある、より幸せなものになると思いますよ」

・「では、生きていくうえで、一番辛いことは何だと思いますか?」「病や老いといった苦しみは、避けられません。しかし、私たちは自分でわざわざ、不要な苦しみを作り出すことがあります。たとえば私たちは、物事がうまくいっているときでも、心配しすぎて落ち込んだり、ストレスを感じたりしていますね。でも、これらは心が作り出したもので、まったく必要ないものだと思います。なぜなら心の苦しみは、自分自身で作り出したものなのです。苦しみを避けることはできます。心を落ち着かせて論理的に考え、心の平和を保つようにすれば、不要な悩みや苦しみを味わずに済むのです。少なくとも、悩みや苦しみを軽減したり、より簡単にコントロールすることができるでしょう。さまざまな苦しみがありますが、中でもこの不要な苦しみは、対処する方法を知りながら、それでも問題に直面してしまうというものです。これが最も難しい、辛い苦しみでしょうね」

・「それでは、生きるとは、どういうことだと思いますか?生きる目的とは、いったい何でしょう?」私がそう言うと、ダライ・ラマ法王は、少しの間、思いを巡らせているような顔になり、鼻の下をぽりぽりおかきになってからおっしゃった。「深い意味は、私にも分かりません」「ただ、明らかなのは、私たちの生きる目的のひとつは、「存在する」ということです。「存在する権利がある」ということ、また「幸福に存在する」ということです。もし、私たちの存在が惨めなものになるとしたら、それは人生の目的ではありません。人生が、平和と幸福、満足、平安、尊厳とともにあるということ、これが正しい人生なのではないでしょうか。私たちは、日々の暮らしが幸せに満ちたものであり、有意義なものであるよう努めるべきです。これはとても大事なことだと思いますよ」幸せな人生を全うするために、大事なものはふたつあります。物質的な発展と、心の発展です。このふたつは、どちらも必要なのです。

・「あの、法王は、死ぬことは怖いですか?」「私は仏教僧であり、仏の教えの実践者でもあります。死は、私たちの人生の一部です。私たちが生きている以上、当然、死はやってきます。死が訪れたとき、もしあなたの人生が有意義なものであったなら、死を恐れる必要は全くありません。しかし、もしあなたが人生を無駄にし、他を傷つけるようなことをしたならば、死は恐ろしく耐えがたいものになるでしょう。生きとし生けるものを思いやり、人生を全うすることは、仏教では来世への正しい準備だと見なします。ですから、死を恐れる理由はまったくありません。私の人生も、多少は他の人々のために役立ったのではと思っています。ですから、そんなに死ぬことを恐れていません。おそらく、実際に死ぬときには、少しは怖いと思いますけどね」

・「あの、私は慈悲についてよく考えることがあるのですが、慈悲とはどのようなものでしょうか?」「慈悲ですか。最も分かりやすいのは、母親がふだん子どもにみせる優しい感情かと思います。母親が我が子を守るために、育てるために、苦労をかえりみず、すべてを犠牲にする態度、それが慈悲です。我が子がたとえ醜くとも、障害を持っていたとしても、母親はそんなことには執着しないでしょう。なぜなら、子供は母親にとって体の一部であり、また、人生の一部だからです。心の底から関心をよせること、心の底から優しい心が湧き上がること、それが慈悲です。仏教の経典には「すべての生きとし生けるものを、母親と見なす」と、よく書かれています。たとえば、日本人がよく食べる魚、小さな甲殻類、魚介類、そして鳥や羊、ヤギや牛、チベット人が食べるヤク、こういった衆生、すべての生きとし生けるものを、チベットでは母親のような存在と見なすのです。私たちは、すべての生きとし生けるものに、関心と慈悲の心を持たなければなりません。私は、動物への思いやりは、とても大切なことだと思っています。もし、あなたが動物に対して思いやりの心を持っていれば、兄弟である人間への慈悲の心も、持つことができるでしょう。また、動物への思いやりがまったくない人は、人間に対しても大変冷淡になれます。自分が実際に体感するまでは、人の苦しみに対して無関心でいられるのです。これは大変危険なことです。テロリスト、テロの恐怖、腐敗、スキャンダルといった今日の社会の問題の多くは、人間的な慈悲の心が欠けているせいではないかと思います。

・大事なことは、どんなときでも自分自身と向き合い、自分の潜在的な可能性を引き出そうとすることです。どれだけ辛い状況でも、悲観的な環境にあっても、心の平安を保つことはできます。逆に、どれだけ素晴らしい物に囲まれ、たくさんの友だちや財産、権力など、あらゆるものを持っていたとしても、精神的に満たされていなければ、その人は幸せだとはいえないでしょう。その人には、心の平安がないわけですから。

・私にもいつか、この世にサヨナラを告げる日が来る。それは、いいことでも悪いことでもなく、事実だ。でも、その日が来るまで、「病気になったらどうしよう」とか「リストラされて仕事がなくなったらどうしよう」とか、「せっかく付き合ったのに別れが来たらどうしよう」なんてことを考えたり悩んだりしたところで、いったいなんになるだろう。ゴールが見えない不安さを嘆くよりは、プロセスそのものを楽しんだ方がいいに決まってる。私は強がりでもなんでもなく、私を振った彼に、今では心から感謝したい気持ちでいっぱいだった。あの大失恋がなければ、私はチベットやラダックを旅しようとも、ましてやダライ・ラマ法王に会いに行こうなどとは思いもしなかったからだ。映画を見たり、本屋に行ったり、旅をしたり、恋をしたり・・・・・、私が日々精一杯生きている世界はちっぽけなものかもしれないけれど、毎日の小さな選択はいつだって今の私を形作っているということ。そして、ひとつひとつの出会いが繋がって、これからの私を形作っていく。先の分からない未来を思い悩むより、自分の生きたい未来を心に思い描き、今日を、明日を、楽しく生きたい。何もかも変わっていくのだから、いつも今やりたいことを存分にやって、今大事にしたい人を腹の底から大事にしたい。私に、世の中の役に立つことがあるなら、なんだってしたい。そして、どんなときもやっぱり、ささやかな夢や希望を持っていたい。希望を持つことこそが、未来に踏み出す第一歩になると、今では強く確信できるのだ。

<目次>
プロローグ
いざ、リトル・チベットへ
シャーマンに会いに行く!
史上最大の”お仕置き”を受けた日
チベット伝統医学のお医者さん
ラダック田舎暮らし
フリー・チベットと一夫多妻の謎
前世を覚えている少女
カルマのおかげでカルマ落とし!?
ダライ・ラマに恋して
単行本あとがき
文庫本あとがき

面白かった本まとめ(2010年下半期)

<今日の独り言> 
Twitterをご覧ください!フォローをよろしくお願いします。 

関連記事

  1. 「なぜか、人とお金がついてくる50の習慣(たかの友梨)」という本はとてもオススメ!

  2. 秋田の子供はなぜ塾に行かずに成績がいいのか(浦野弘)

  3. 「「朝4時起き」で、すべてがうまく回りだす!(池田千恵)」という本はオススメ!

  4. なぜ宝塚歌劇に客は押し寄せるのか(中本千晶)

  5. とてつもない日本(麻生太郎)

  6. 効率が10倍アップする新・知的生産術(勝間和代)

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。