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東海道五十三次 街道をゆく(品川宿~川崎宿)品川橋・品川寺編

 阪急交通社が企画する「東海道五十三次 街道をゆく」第1回目の日本橋~品川宿に引き続き、第2回目の品川宿~川崎宿に参加したのですが、今回はその最初の品川橋・品川寺編を紹介したいと思います。

品川宿本陣跡・聖跡公園に集合した後は、今回も簡単に体操をして出発します。
今回は第1回目の8.8kmよりは距離が長く約11.7kmを歩くこととなります。
今回のチームは総勢21名で、今回は小学生の男の子も参加していましたね^_^)
午前9時25分頃出発しました。


↑体操

旧東海道の面影が残る道幅の道路をてくてく歩きます。
たまに昔ながらの格子窓の家もあります。
相当古そうですね。


↑旧東海道の道幅

まず、品川橋に到着しました。
北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ、江戸時代にはまさしく「境橋」と呼ばれていたようです。
浮世絵に描かれている神社などと比較すると、当時と川の流れは埋め立てのせいか変わっているようです。
現在はかなり埋め立てられていて想像がつきませんが、東海道のそばはすぐ海だったようです。
確かに浮世絵も海とセットが多いですね。


↑品川橋

それからしばらく歩くと、道の左側の壁に「問屋場・貫目政所 跡地」の案内がありました。
 問屋場とは、大名行列や通信(飛脚)、流通として馬・人足を用意する場所で、宿場町としては重要な場所だったようです。
流通としては、たとえば品川宿の海苔問屋の海苔はこの問屋から浅草に運ばれ、そこで小売されていたようです。


↑問屋場・貫目政所 跡地

それから、「あど街ック天国」というテレビ番組のロケが畳店で行われていました。
きっとこのお店が番組で紹介されるのでしょう。
かなり老舗で、趣のあるお店です。


↑岡松畳店

それから、品川宿の脇本陣「釜屋」跡の案内がありました。幕府御用宿だったようです。
本陣は大名などが泊まる場所ですが、ブッキングした際には、どちらかの大名は脇本陣に泊まっていたようです。
この「釜屋」は、元は立場茶屋で、見送りや出迎えの人たちと宴会を開き大変繁盛したので、本陣のような構えにし、「本陣」と呼ばれたようです。
幕末動乱時には連日のように幕府関係者が利用した記録が残っているようです。
新撰組副長土方歳三らも、慶応3年(1867年)10月21日に休息し、慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いに敗れた新撰組隊士たちは1月15日に品川に上陸し、しばらくこの釜屋に滞在したようです。
以前このブログでも紹介しましたが、土方歳三資料館http://blog.goo.ne.jp/good-tasty/e/8c5edfe70209a7460af1a6349574dea4 へ行ったことがあるので、感慨深かったですね。


↑釜屋跡

ちなみに、当時の2食付の旅籠代は1泊200~300文だったようです。
現在のお金で1文20~25円のなので、4000円~7500円ぐらいですね。
もちろん飯盛女なしのお値段とのことです。
また当時は近くに藩邸があった薩摩藩士とお坊さんが上客だったようです。

それから、品川寺へ行きます。
「しながわでら」ではなく「ほんせんじ」と読みます。


↑品川寺

品川寺は、真言宗で約1200年前の空海が授けたようです。
1395年には足利家によって品川一族が滅ぼされ、1450年には太田道灌の居館となり、江戸城が完成するまでここにいたようです。
1566年には武田信玄が攻めて焼き払い、明治維新にも焼かれたようです。
大正から昭和にかけて復興したようです。
結構大変な寺だったようです。

それからここの鐘は「洋行帰りの鐘」と呼ばれるようです。
というのは、慶応3年(1867年)のパリ万国博覧会、明治4年(1871年)のウィーン万国博覧会に展示され、後にスイスのジュネーブにある「アリアナ美術館」で保管されたのですが、日本ではずっと行方不明で、昭和5年(1930年)にようやく返還されたためです。
アリアナ美術館では、この鐘は時刻を知らせる鐘として使われ、愛着があったようです。
平成2年にこのレプリカの鐘をジュネーブに送り、ジュネーブと品川は現在は友好都市の間柄のようです。
また1970年の札幌オリンピックの際には、スイス選手をこの品川寺に招いて友好を深めたようです。
2020年の東京オリンピックでも同様の計画があるようですね。
心温まる話だと思います。


↑洋行帰りの鐘

なお、この「洋行帰りの鐘」には、徳川初代将軍から三代将軍の名前(戒名)である「東照宮」「台徳院殿」「大猷院殿」が大きく書かれていましたね。
というのは、この鐘は1657年に第四代将軍である徳川家綱が作らせたものだからですね。


↑洋行帰りの鐘の将軍の名前

それから、この品川寺には入口の近くに大きな地蔵がありました。


↑大きな地蔵

 江戸深川の地蔵坊「正元」(しょうげん)が24歳の時に不治の病にかかってしまい、地蔵菩薩に祈願したところ、無事治癒したことから、その感激のあまり京都の六地蔵に倣って、約7万人から浄財を集め、江戸市中街道沿いの6箇所に地蔵菩薩を12年かけて建立したようです。
1番目はこの品川で、2番目は奥州街道沿いの浅草だったようです。
6番目が深川の永代寺で、深川以外は現在も残っているようです。


↑地蔵の説明

今回もなかなか歴史の勉強になりました。
旅って面白いですね!
次回は泪橋・鈴ヶ森刑場跡編を紹介したいと思います。

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