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東海道五十三次 街道をゆく 小田原~畑宿 (3)一里塚~畑宿

 前回に引き続き、阪急交通社が企画する「東海道五十三次 街道をゆく」の第9回目の小田原城~畑宿 (3)一里塚~畑宿について紹介したいと思います。

早雲寺を後にして、少し歩くと一里塚がありました!
江戸の日本橋から22番目となります!
一里約4kmとすると約88kmですね。
結構遠くまで来ました!


↑一里塚

それからしばらく歩いて、江戸時代から石畳の道を歩きます!


↑箱根旧街道入口の説明

当時の街道は、雨が降ると、膝くらいまで道がぬかるんで大変だったようです。
当初は箱根竹を敷き詰め、そのぬかるみに対処していたようですが、箱根竹は半年しかもたないため、半年毎に箱根竹を敷いていたようです。
しかし、それでは大変なので、近くの二子山から石を持ってきて敷き詰めたのが、この石畳とのことです♪
当時は、そんなにぬかるんでいたとは信じられませんね。


↑石畳の道

それから須雲川自然探勝歩道の地図がありました。
二子山や芦ノ湖が位置関係がよく分かりますね。


↑須雲川自然探勝歩道

それから、女転がし坂がありました。
当時、女性がこの付近で落馬して、転がり落ちて死んでしまったとは恐ろしいですね。
それほど、箱根道は難所だったということでしょう。
また、5年ほど前に東京から京都まで自転車旅をした時を思い出しましたね。
当時もこの看板を見て、あまりの急坂で自転車を押しながら歩きましたね^_^)


↑女転がし坂の説明

それから、「割石坂」の説明がありました。
仇討ちで有名な曽我兄弟の一人が、腰の刀の切れ味を試すために路傍の巨石を真二つに切り削ったところとのことです。
その石が説明板の横にありました。


↑割石坂の説明

そして、また江戸時代の石畳がありました。


↑これより江戸時代の石


↑石畳

江戸時代の人もこの石畳を歩いていたと考えると、何だか感慨深いものがありましたね^_^)

そして、箱根路の説明がありました。
古来より実は箱根路は変遷していたようです。


↑箱根路のうつりかわりの説明

東海道が整備されたのは関ヶ原の戦いが終わった直後で、徳川家康が天下を握ったとはいえ、まだ豊臣家は残っているし、江戸を守るためにも東海道はわざと急峻な道を選び、関所も設けたようです。
ナルホドですね。

それから、接待茶屋の説明がありました。
当時はここでボランティアで、旅人や馬に対して湯茶や飼葉を提供して喜ばれていたようです。
明治時代からは鈴木家が続けていて、何と昭和45年まであったようです。


↑接待茶屋

それから、石畳の構造の説明がありました。
排水路も考えていたようです。
素晴らしいですね。


↑石畳の構造の説明

それから石畳の斜めの排水路の説明もありました。
素晴らしい技術ですね。


↑石畳の斜めの排水路の説明

そしてようやく畑宿へ到着しました。
当時は、小田原宿と箱根宿の間の補完的な宿だったようですが、大名などが泊まる本陣や旅籠があったようです。


↑本陣跡の説明

この日は懸念されていた雨もギリギリ回避できてラッキーでしたね。
江戸時代からある石畳を歩けて感動でした!
次回は畑宿から箱根宿へのウォーキングとなります!

お勧めなお話(2015年下半期)

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