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「人生を面白くする 本物の教養(出口治明)」という本はとてもオススメ!

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「人生を面白くする 本物の教養」という本は、ライフネット生命保険株式会社代表取締役会長兼CEOの出口治明氏が著者で、教養とは何か?、世界と比べた日本の教養の実態、具体的な著者の本・人・旅からの教養取得方法、教養としての日本や世界の時事問題、英語は重要などについて分かりやすく説明したものです。

 特に教養を身につけるには「自分の頭で考える」ことが重要で、そして教養を培ってくれたのは「本・人・旅」の3つで、どれも面白いと思うことが大切というのはナルホドと思いましたね。

 これからも読書や人との出会い、旅は大切にしたいと思います。

 また仕事も大切ですが、実は人生の7~8割を占める生活(ライフ)を大切にし、仕事や職場がすべてではないと気づき、様々な教養に目を向けた方が人生のために役立つというのもナルホドと思いましたね。

 そのほか本書はより良い人生のためのヒントが具体的に随所にあり、とてもオススメですね!

以下はこの本のポイント等です。

・ときどき「教養を身につけるには何冊ぐらいの本を読めばいいのですか?」などといった質問を受けることがあります。そういう質問を受けるたび、私はシャネルの「私のような大学も出ていない年をとった無知な女でも、まだ道ばたに咲いている花の名前を一日に一つぐらいは覚えることができる。一つ名前を知れば、世界の謎が一つ解けたことになる。その分だけ人生と世界を単純になっていく。だからこそ、人生は楽しく、生きることは素晴らしい」の言葉を引いて「教養とは生き方の問題ではないでしょうか」と答えるようにしています。知識は確かに大切ですが、知識=教養ではありません。本書の基本的な立ち位置はそこにあります。教養は、グローバルなビジネス社会を生きるうえでの武器になるという側面もあります。広く世界に目を向ければ、海外の多くの国では日本以上に教養が問われます。そして残念ながら、日本のリーダー層は、世界標準からすると、教養という点ではかなりレベルが低いと言わざるをえません。私たちはあまりそのことに気づいていないのではないでしょうか。

・教養とは何でしょうか?どうして人間には教養が必要なのでしょうか?もし、そう質問されたら、私の答えは、「教養とは、人生ひおけるワクワクすること、面白いことや、楽しいことを増やすためのツールです」という一言に尽きると思います。よりワクワクする人生、より面白い人生、より楽しい人生を送って、悔いなく生涯を終えるためのツール、それが教養の本質であり核心であると私は考えています。「あの人はすごい教養人だ」と他人に評されるかどうかなどは、どうでもいいことです。教養とは、人からの評価を高めたり箔をつけたりするためのものではなく、自分の人生をより彩り豊かにするためのものだと思います。

・教養のもう一つの本質は、「自分の頭で考える」ことにあります。著名な科学史家の山本義隆氏は、勉強の目的について「専門のことであろうが、専門外のことであろうが、要するにものごとを自分の頭で考え、自分の言葉で自分の意見を表明できるようになるため。たったそれだけのことです。そのために勉強するのです」と語っています。この当たり前のことが、案外置き去りにされている気がします。

・オックスフォードでは、一番優秀な学生は外交官を目指すそうです。ネゴシエーションを通じて連合王国の伝統と歴史を守り、没落のスピードを緩めたいということなのでしょう。もう一つ、優秀な学生が目指す職業は次の時代を育てる教師だそうです。そして、それよりは成績が劣るグループが、シティに行ってお金儲けに精を出すのだそうです。このような優れた教師や学生たちがいる限り、連合王国は没落の運命にあるとはいえ、国際社会でしぶとく生き残っていくだろうなと強く思いました。

・日本は小さい国だと思っている人は、実はかなり不勉強なのではないでしょうか。日本の領海の面積は世界第6位になります。海洋資源も日本の大きな余力です。日本は小さい国ではなく、海を含めて考えればむしろ大きい国なのです。私は日本が大好きですから、日本のポテンシャルを信じたいと思います。これまでは自分の頭で考える必要もなく教養もそれほどなかったけれど、それでもこれだけの戦いができました。もし日本人が世界標準の教養を身につけたら、まだまだこの国は大きく成長できる可能性を秘めているはずです。

・中国は4千年もの長い歴史を持つ国ですが、その長い歴史において平和で豊かだった時代(盛世)がどれだけあったのかというと、わずか4回しかありません。最初は文景の治(紀元前180~紀元前141年)と呼ばれる時代で、前漢の文帝と景帝の治世です。次が貞観の治(627~649年)で、唐の太宗・李世民の時代。その次が開元の治(713~741年)で同じく唐の九代皇帝・玄宗の時代の前半です。そして最後が清の時代(1661~1735年)です。4回の盛世を合計してもたった200年足らずです。それから考えると、戦後の日本が曲がりなりにも70年間平和で豊かな時代を享受できたのは、奇跡的に幸運だったと考えられます。このように「タテ」(時間軸)と「ヨコ」(空間軸)の視座を持つことで、歴史的、世界的な見方が可能となり、物事の本質をよりはっきりととらえることができます。

・「常識を疑う」ことはとても大切です。これも日本人は不得手かもしれません。商売で一番儲ける方法をご存じでしょうか。大きな情報格差があってまるで疑うことを知らない無垢な人を相手にする場合、あるいは供給元がほかになくて独占状態の場合に、商売は一番儲かるのです。これは太古の昔から世界共通の事実です。江戸時代の日本人もそうでした。江戸後期には、「ターヘル・アナトミア」のような西洋の最新の学術・文化を記した蘭学書が日本に入ってきました。蘭学書に書かれていたことは日本の学問の水準よりずっと進んでいたので、読んで賢くなりたいというニーズが旺盛でした。すると、そのことを知ったネーデルラントの人たちは「ほかにもいい本があるよ」と、原価数万円ぐらいの本を、数百万円とか数千万円とふっかけて日本人に売りさばいたのです。鎖国で書物の相場も分からず(=情報の非対称)、ほかに入手の方法がなかったこともあって(=独占状態)、日本人は大損をしてしまいました。家を売って蘭学書を買った学者もいたのです。鎖国が解かれてからも日本はずいぶん損をしました。開国当初、日本から外国へ、大量の小判が流出しました。当時わが国の金銀比価は約1対5でした。ところが、世界の市場では、1対15が相場でした。外国人たちはこぞって日本で金1を銀5で仕入れ、香港などで金1を銀15で売りさばいたのです。彼らは労せずしてお金を3倍に増やすことができました。ものすごいマネーゲームです。これも世界の事情に疎かった幕府が、相手の言い値を鵜呑みにした結果です。幕府はすぐに気づいて対策を講じますが、このときの損失が痛手となって(旗本が貧しくなった)、のちに薩長連合に敗北する運命をたどることになります。文明開化時の日本人に限らず、適切に「常識を疑う」ことは常に必要です。常識を疑うことが広く許されなければ、市場は悪意ある人たちのやりたい放題になります。健康食品も「これ、効かないんじゃないか」とか「有害ではないのか」などのチェック機能が働かなければ、粗悪品がのさばります。あるいは、市民が疑わなければ、政治家は恣意的な政治を展開します。商売も政治も、疑うことを知らない人が相手であれば、好き勝手ができるのです。無法や暴走、不正などに歯止めをかけるのは「常識を疑う」ことです。市民の一人ひとりが社会常識を疑うことによって、社会は健全に発展し、自浄作用が機能します。それが近代国家における批判精神であり、
「リテラシー」と言われるものです。リテラシーは教養そのものと言っても過言ではありません。

・実際の絵画を見るだけではなく、画家や作品にまつわる物語も大好きなので、美術の本も相当読んでいます。こちらは二次資料ということになります。普通の書店に並んでいるようなものはほとんど読んでいると思います。いろいろな人が唱えている説も、大体知っています。このように美術に関する一次資料(本物)と二次資料を大量に見て読んできたおかげで、素人であっても、人前で美術史の話ぐらいはできるようになりました。「習うより慣れろ」とか「門前の小僧、習わぬ経を読む」ということわざがありますが、それは当たっていて、とにかく大量の情報に接すると、おのずとその分野に関して造詣が深くなるものです。好きな分野であれば四の五の言わずに情報収集に努めること、ひたすら量を積み重ねること、それも知の蓄積のコツの一つです。

・教養を深めるうえでは、学ぶ時間を生活習慣の中にうまく取り込むことも大切です。毎朝新聞を三紙読み、寝る前に1時間本を読むのは、歯をみがくのと同じように私の生活習慣の一部になっています。私は元来がとてもものぐさな人間で、個々の事柄についていちいち考え、判断すのが面倒で嫌なので、多くの事柄について、自分の行動基準をあらかじめ「ルール化」し、それに基づいて機械的に動くようにしています。

・ルールを守って全力投球していると、気づかぬうちに大きな成果を手にすることができます。私は「寝る前の1時間は本を読む」というルールを若い頃から実践しています。そのおかげで、読んだ本の冊数を数えたことはありませんが、おそらく優に1万冊は超えており、かなりの読書量になっているはずです。それがそのまま私の知の蓄積につながっています。

・漠然と「勉強しよう」と思っているだけより、具体的な目標が身近にあれば励みにもなるし、自分がまだどのくらい足りないかも明確につかめます。日本興業銀行(当時)の産業調査部に出向して鉄鋼班に配属されたときには、鉄鋼業についてとても詳しい人がいましたから、「半年でこの人より詳しくなってやろう」と目標設定しました。その都度、身近な目標を見出していくことが、成長の一つのコツだと思います。具体的な目標を身近に見つけることによって、私は成長を確かなものにできたと思います。

・経団連や全銀協などの会長がTOEFL100のスコアを持ってこなかったら一切採用面談はしない、と言い切れば日本の学生の英語力は確実にアップすることでしょう。大学生の勉強不足は、企業が採用面談の際、グローバル基準に合わせて、「君は大学でなぜその分野を選び、どのような成績を収め、何を学んだのですか?」と質問するように変えれば、一発で解消します。それもこれもすべてこの社会の仕掛けもしくは仕組みの問題だと思います。

・私は睡眠時間が長くないとだめないわゆるロングスリーパーなので、大体午前0時頃に就寝し、朝6時ごろに起きています。休日は8時、9時まで寝ています。これは若いころからの習慣で、「趣味は?」と聞かれたら「眠ることです」と答えるぐらい、よく眠っています。寝付きもよく、どこでも2、3分ですぐに眠ることができます。睡眠は、私の健康を支える重要な柱になっています。その次はよく食べることです。小学校の給食が少なく、いつもお腹を空かせていたおかげで、食べ物の好き嫌いはまったくありません。

・私にいくばくか教養のようなものがあるとすれば、それを培ってくれたのは、「本・人・旅」の3つです。私はこれまでの人生で、「本・人・旅」から多くのことを学んできました。あえて割合を示せば、本から50%、人から25%、そして旅から25%ぐらいを学んできたといったところでしょうか。さまざまな本を読み、さまざまな人に出会い、さまざまな場所を旅すると、世界にはこれほど素晴らしいところがあり、こんなにも素晴らしい人がいるのかと、その広さと豊かさをあらためて実感します。同時に、自分の小ささや幼さがよく分かります。「本・人・旅」は、常に私に身の丈を思い知らせ、謙虚であらねばと思わせてくれます。「本・人・旅」は私の人生の道しるべなのです。

・私はこの3つから、必ずしも何かを「学ぼう」としているわけではありません。私を動かしているのは、何よりもまず「面白い」という感覚です。「好きこそものの上手なれ」と言うではありませんか。本を読むのは面白いから読む、人に会うのは面白いから会う、旅をするのは面白いから旅に出る。万事がその調子で、私の価値観では常に「面白いかどうか」が一番上にあるのです。

・私が大学に入学したのは1967年です。しばらくすると全共闘運動が燃え盛り、学舎が占拠されてしまったので授業はほとんどありませんでした。下宿で本を読んでは友人と議論をし、またひたすら本を読むという生活を繰り返していました。本にどっぷり浸かった生活で、一日14、5時間は読んでいたのではないでしょうか。そのような生活が丸々2年ぐらい続きました。人生でもっとも幸せな時期の一つでした。

・私の本の読み方はオール・オア・ナッシングです。中途半端はありません。どういうことかというと、本文を読み始めて5~10ページほど進んで、面白いと思ったら最後まで読み、そうでなければその時点で読むのをやめてしまうのです。私の経験則ですが、最初の5ページが面白くない本は最後まで読んでも面白くありません。著者が読んでほしいと思って最初から力を入れて書いているはずですから最初が面白くない本があとから面白くなるはずはないのです。

・いったん読むと決めたら、じっくり読みます。決して読み急ぎはしません。読んでいて分からないところが出てきたら、腑に落ちるまで何度も同じ部分を読み返します。多くの人は早く読み終えたいがために「読み返す」ということをあまりしないようです。しかし、「読み返す」ことによって、最初は分からなかったことでもちゃんと分かるようになり、頭のなかへの入り方がまったく違ってきます。早く読了したいばかりによく分からないまま読み進めていくのは、食べ物をしっかり噛まないで次から次へと食べていくようなものです。当然、消化不良を起こし、お腹を壊してしまいます。読書もスピードだけでは、たとえ一冊読破したとしても、自分の血肉となるものが少ないのではないでしょうか。読み終わった直後なのに、何が書いてあったかよく思い出せない、といったことになりがちです。著者の主張をしっかり理解できなければ、読書の意義も半減してしまいます。じつにもったいないことです。分からないところを読み返すのは、人によってはまだるっこしく思われるかもしれまえん。ですが、急がば回れで、本の内容をより血肉化するためには、読み返しが結局一番の近道だと思います。

・私は速読はおすすめしません。速読は百害あって一利なしとさえ考えています。本を読むのは人(著者)の話を聞くのと同じことです。人の話はていねいに聞かないと身につきません。何より私自身、話をしていて相手に「速読」されたら腹が立ちます。インスタントは所詮インスタント、急ごしらえには無理があります。かけるべき時間をかえることがクオリティの高い読書につながります。

・何か新しい分野を勉強しようとするときは、まず図書館で、その分野の厚い本を5、6冊借りてきて読み始めます。分厚い本から読み始め、だんだん薄い本へと読み進んでいく。これが新しい分野を勉強しようとするときの私の読み方のルールです。一般的には、薄い入門書から読み始めて、次第に分厚い本に挑んでいくようですが、私は逆のほうがいいと思っています。分厚い本には詳しく高度なことがたくさん書かれていますから、最初は何が書いてあるのか分からず、読むのが大変です。しかし、「この分野について勉強しよう」と決めているのですから、辛抱してていねいに読みます。それでも、たいていは部分的にしか理解できませんので、最初の一冊は「点の理解」にとどまります。二冊目を読むと、こんどは少しずつ点と点が結びついてこれまで理解したことがつながり始めます。「線の理解」、すなわち線が浮かんでくるのです。分厚い本を5冊ぐらい読んでから薄い本を読むと、それまでの点がすべて線になってつながり、さらには「なるほど、この分野はこういうことなのか」と全体像が見えてきて、一挙に「面の理解」に広がります。極論すると、いままで読んだ本すべてが同時に腑に落ちるのです。1ヶ月ぐらい時間をかけて10冊ほど読むと、もう大丈夫です。その分野に詳しい人と話をしても、何を言っているのかが分かり、会話が楽しくなります。私はこのようなやり方で、新しい分野を開拓してきました。一般に、入門書は薄い本が多いのですが、初めに薄い本を読んでしまうと、何となく概略がつかめた気になって、分厚い本を読まなくなる恐れがあります。もう分かったと思ってしまって、手間のかかる本が面倒になるのです。

・本の情報としては書評があります。こちらは大いに活用しています。特に新聞の書評欄は、新聞のなかでもっともクオリティの高いページだと思います。書評はそれぞれの分野の専門家が署名入りで執筆しています。アホなことを書いたら同業者から笑われてしまいますから、けっこう一所懸命書いているのではないでしょうか。専門分野の署名記事は、おのずとインセンティブが働き、クオリティが高くなるのです。実際、新聞の書評で興味をかきたてられた本は、ほぼ例がいなく面白い。

・優れた本とはどういうものでしょうか。保守主義の立場から言えば、まず、古典は無条件に優れていると言えます。何十年も何百年も、無数の人々の眼力に耐え、市場で生き残ってきたものは、いいに決まっています。百年以上生き残ってきたものは、まず間違いがありません。どのような理由で生き残ることができたのかは個々の事情があるのでしょうが、時代が変わっても価値が認められてきたわけですから、99%クオリティの高いものと考えていいと思います。古典の定義はいろいろありますが、「岩波文庫や東洋文庫に入っている本」と考えておけば、まず間違いありません。古典は優れたプロのコーチです。慣れるまでが大変ですが、確実に賢くなることはプロのスキーコーチに教わる場合と同じです。

・私は人とつき合う場合も本と同様、基本的には「面白いかどうか」で考えています。面白ければつき合えばいいし、面白くなければ近所づき合い程度で十分だと思います。人と会う時間も、本と同様、ワクワクしなければ互いに時間の無駄だからです。

・利害や役割だけの人間関係は空しい、という話をしてきました。それだけ聞けば、もしかしたら私のことを一種の理想論者と思われるかもしれませんが、それは必ずしも当たっていないように思います。私は面白い人であれば年齢・性別・国籍フリーで誰とでもつき合いますが、形式的なおつき合いは極力省きたいと思っているタイプです。なぜなら、人生にとって「時間」ほど大切なものはないからです。

・野付半島では一番先っぽまで行きたいと思ってバスに乗ったら途中で終点になってしまい、そこからはひたすら歩きました。えらく時間がかかり、行って、見て、帰ってくるだけでほぼ半日以上費やしました。でも、別に急ぐわけでもないし、それはそれでよかった。野付半島の最先端など、誰も行く人がいませんから、軽い達成感のようなものが得られました。この旅で、目的を決めない放浪ほど楽しいものはないなぁとつくづく感じた次第です。ちなみに予算は確か2万円近く余りました。この本では旅を教養の源の一つと位置づけており、それは間違いなくそうなのですが、実際には教養を身につけるために旅をしているという感覚は私にはまったくありません。面白そう、楽しそうだから旅をしたいというだけで、旅は理屈ではないのだと思います。北海道は広くてきれいなんだろうな、と思って行ってみたくなり、行ってみたらやはり広くてきれいで楽しかったということです。教養とは人生を面白くするツールだと言いましたが、まさに旅がそうです。何かが得られたとしても、それはあくまでも結果としてであって、私は旅をしているときはひたすら楽しんでいます。その意味で、旅こそ最高の遊びにしてもっとも楽しい教養の源と言えるのかもしれません。

・マーケットを見て歩くのは本当に面白い。マーケットを見れば、その国の政治がうまくいっているかどうかが大体分かります。マーケットに安くて新鮮な食べ物が豊富にあれば、政治がうまくいっている何よりの証拠です。逆に、マーケットに商品がなく、残っている商品が高値だと、政治が乱れていると察しがつきます。私たち日本人にとっては、マーケットにたくさんの商品が安価で並んでいるのはごく普通の光景ですが、世界ではそういう国は意外と少ないのです。若者や女性のファッションを眺めるのも興味深い。若者や女性のファッションが年々きれいになっていく国は政治や経済が概ねうまくいっているのだと思います。人間は動物ですから、子供が産める若い女性に、男性は貢ぐという万国共通の法則があります。女性がきれいになるのは、男性たちに経済力がついて女性に貢ぐことができるようになるからです。また古今東西、若者はファッションに敏感です。ファッションにお金がかけられるということは、その国の経済がうまく回っている証左でもあります。

・私たちが日常の買い物をするのはデパートではなくスーパーですから、海外でも同じように振る舞えば、簡単に日常化できるわけです。どの店へ行けばよいか分からなくても、いい店は人気があるのは洋の東西を問わず、どこでも一緒ですから、賑わっている店へ行けばまず問題はありません。安全には気をつけなければなりませんが、そのように過ごしていると、その土地その土地での「素顔の旅」が味わえます。世界遺産のようないわゆる観光スポットは見応えがありますが、どうということのない日常の場所もひと味違った味わいが感じられます。皇居や素kツリー、浅草といった名所ばかりを回っても、なかなか「リアルな東京」は見えてこないのと同じです。コンビニで買い物をしたほうが、はるかに東京の現実に触れることができるでしょう。

・教育とは、本来、人間が社会で生きていくために必要な武器を与えるものです。少なくとも二つのことが教えられるべきです。一つは「考える力」です。自分の頭で考え、自分の言葉で、自分の意見を言える人間に育てあげこと、それが教育の最大の目的です。もう一つは現代の社会生活を送るうえで必要な「生きた実践的な知識」を教えることです。とくに現代社会においては「選挙・民主主義」「お金」「税と社会保障」など、生活に直結する事柄について実践的な知識を学んでおかねばなりません。ところが、戦後長く続いた「考える必要のない」キャッチアップモデル時代の名残で、いまもって「考えない」教育がなされているような気がしています。暗記を偏重していたり、受験を目的とした妙な学習体系が確立していたりして、生きるのにさして重要ではない知識ばかりが異様な精微さで教えられています。民間も「教育産業」の名の下でそれに拍車をかけています。我が国の教育は本来の機能を取り戻す必要があると思います。

・私は最低でも「財産三分法」を学校でしっかりと教えるべきだと考えています。「手持ちの財布にはいつもいくらかのお金を入れておきなさい。次に、毎月の手取り収入のうち、仮になくなったとしても生活に困らない分は投資に使ってもかまいません。そして、残りは預貯金にしておきなさい」というのが財産三分法です。ここでいう預貯金は金利が目当てではありません。流動性、つまり、いつでも現金に換金できるところに預貯金の至上の価値があります。もちろん、金利が高いにこしたことはありませんが、仮に金利がゼロであっても預貯金の価値は減じません。グローバル基準で考えれば手取り年収の半年分ないし1年分は預貯金に置いておくのが普通です。

・少子化対策については、フランスのシラク三原則が参考になると思います。フランスも少子化に悩んできましたが、シラク三原則をベースに、少子化対策を整合的なパッケージとして打ち出し見事に出生率を反転させることに成功しました。シラク三原則の基本的な考え方はとてもシンプルで、フランスの伝統や文化を守るためにはフランス語を母語とする人口を増やさなければならない(文化とは言葉である)、人口を増やすためには女性が赤ちゃんを産みたいときに産める状況を社会の責任で整えなければならない、ということです。この考え方い沿って具体的な政策が立案されました。第一原則は、赤ちゃんを産んでも経済的に困らないような措置が採られたことです。子どもをつくっても新たな経済的負担が生じないように、子どもが増えるたびに大変手厚い給付が実施されています。この背景には、赤ちゃんは女性が産みたいときに産めばいい、しかし産みたいときと、その女性に経済力があるときとが、必ずしも一致するわけではない、そのかい離は社会の責任で埋めよう、という至極真っ当な考え方があります。第二原則は、子どもをつくった働く女性が困らない環境を整えること。地方自治体の責任で保育所を完備し、待機児童をゼロにすることが決められました。また、最初の一年間の育児休暇の間は給与をほぼ100%保障するようにしています。ということは、ゼロ歳児保育は一番コストと手間がかかりますから、そこは原則として親に任せようということです。給料を100%保障したら、ほとんどの親は子育てに励みます。親子の時間もできるので、個人にとっても社会にとっても望ましい仕組みです。第三原則は、子育てで最長三年間休職しても、職場にずっと勤務していたものとみなし、元の役職に戻れる(人事評価も変化しない)ことを保障したことです。フランスでは、わずか10年で出生率が1.6程度から2.0を超えるレベルにまで回復し、少子化に歯止めがかかりました。どれもシンプルな施策ですが、きわめて合理的・整合的です。「幹」をしっかり押さえれば政策効果が確実に生じるという好例です。

・社会問題や時事問題は、表面的な「枝葉」に目を奪われず、「幹」や「森」の部分で本質をとらえるように努めれば、何事もよく理解できると思います。本質をとらえるときの第一の着眼点は「動機」です。原因と言ってもいいのですが、この問題は何が動機で起こっているのか、幹のメカニズムをしっかり見極めることが肝要です。推理小説と同じで、動機あるいは結果的に得をするのは誰かを常に考えるクセをつけることが大切です。もう一つは、いわゆる「本音」と「建前」を見分けることです。現代社会では何事であれ大義名分が必要ですから、表に出てくるのは建前ばかりです。しかし、建前の裏には必ず本音が潜んでいます。ロシアはクリミア併合にあたって「クリミアの住民投票の結果を尊重する」と主張しましたが、もちろんそれは建前です。本音は、おそらく「住民の大多数がロシア人で、かつ地政学的にもきわめて重要な戦略拠点(不凍港)を取り戻したいから)でしょう。しかし、もちろん本音だけでは通らないから、もっともらしい建前をロシアは主張したのです。時事問題はこの2つの視点を組み合わせれば、かなりのことが分かってきます。つまり、「本音のところで、どういう動機なのか」という見方をすれば、読み間違えることが少なくなるのではないでしょうか。

・TOEFLで100点を取ることはグローバルな人材を目指すうえでの一つの関門です。TOEFLは120点満点なので100点は83点レベルです。それがミニマムです。もし欧米の一流大学へ行きたければ110点を超えなければ厳しいと言われています。日本にはTOEICという試験もありますが、世界共通で参照される物差しはTOEFLのほうです。

・ビジネス上必要な英語は実はごく限られているのです。ロンドンでの仕事は、融資(円ローン)と証券投資が主たる業務でしたので、向こうが言ってくることは大体決まっていて、「この株を買ってほしい」とか「お金を貸してほしい」「レートはどれくらいか?」といった用件が中心です。そのパターンが分かってきたら、片言の英語でも何とかなると思えるようになりました。だから、仕事のほうは案外早く適応できました。問題は個人的なおつきあいでした。こちらはそう簡単にはいきません。「一度、うちへきてご飯を一緒に食べよう」と招待されたときが辛いのです。そこで私が考えた作戦は、最初に相手の趣味や興味があることを尋ねるという方法でした。最初に「あなたは何が好きですか?」と質問して、たとえば「サッカーが好きだ」と言われたら、ひたすらサッカーについて話します。つまり、英語力ではなくサッカーの知識を活用するのです。そのようにして、何とか会話を成立させていました。もし、私には分からないこと(ホッケーなど)が好きだと言われたら、「ほかには何が好きですか?」と、こちらがある程度知っているものが出てくるまで探りを入れます。そうやって、3時間ぐらいは何とかしのいでいました。

・人間にとて仕事は何かと言えば、「どうでもいいもの」だとあえて言っておきたいと思います。その趣旨は「2、3割の時間より7.8割の時間のほうが大切ではないですか?」という問いかけです。私たちが仕事に費やしている時間は全体の2、3割程度です。残りの7、8割の間に私たちは食べて、寝て、遊んで、子育てをしています。家族や友人と一緒に過ごしたり、団らんの時間を楽しんだりしています。はっきり言って、2、3割の仕事の時間は7、8割の時間を確保するための手段にすぎません。家族や友人は取り替えが利きませんが、仕事は取り替えることができます。そもそもボリューム的にも2、3割より7、8割のほうが圧倒的です。人生にとって重要なのは、2、3割の仕事(ワーク)か7.8割の生活(ライフ)かと言えば、考えるまでもなく7.8割のほうに決まっています。だから仕事は「どうでもいいもの」なのです。この意味で「ワークライフバランス」という表現は間違っていると思います。「ライフワークバランス」と言い直すべきです。仕事命、職場命の価値観は見直す時期にきています。

・仕事は「どうでもいいもの」だという価値観があれば、自分の信念に従い思い切って仕事をすることができます。仕事を人生の最優先事項ととらえ、職場を絶対視すると、これを言ったら上司に嫌われるのではないかとか、みんなのひんしゅくを買うのではないかなどと余計なこおが気になって気持ちが委縮してしまいます。失敗してはいけない、失点を防がなくてはならないと自縄自縛に陥ります。しかし、仕事など「どうでもいいもの」だと割り切り、相対視すれば、多少失敗しても自分の人生(ライフ)には関係がないし、上司の心証などそれほど大したことではないと割り切れますから、かえって堂々と自分の信念に従った仕事ができます。また、仕事に行き詰まってうつになったり、ひどい場合には自殺したりするといったことも防げます。従業員がうつになったり自殺したりするのは大問題ですか職場にとっても大きなメリットがあります。

・私たちは、職場や仕事を背負い込みすぎてはいないでしょうか。出世して「偉くなること」は一般には成功ととらえられ、トップは「偉い人」として取り扱われます。トップを務めている人たちのなかにも、そう思っている人がいます。本当にそうでしょうか。私は企業のトップは「機能」だと考えています。社長になったから、会長になったからといって、別にその人の人格が向上したとか人間的価値が増大したわけではありません。出世とは、極論すれば、たんに「機能」が変わっただけなのです。企業にはトップという「機能」が必要なので、その「機能」をライフネット生命ではいまは私が担当しているというにすぎません。課長や部長も同じことです。組織のなかで課長や部長という「機能」を分担しているだけの話で、決して人間的に偉いわけではないと得心しておく必要があります。職場に過剰適応してしまうと、出世や左遷といったことに一喜一憂しすぎてしまいます。ひどい場合には、職場内での序列が人間のランキングだと勘違いしてしまいます。じつに馬鹿馬鹿しい限りです。仕事や職場がすべてだと思っている人は、じつは仕事や職場に依存し従属しているにすぎないのです。それでは人間としての視野が狭すぎます。仕事や職場がすべてではないと気づく必要があります。そう気づいて初めて、さまざまな教養にも目が向くというものではないでしょうか。どうしても仕事がうまくいかなければ、さっさと仕事を替えてしまうという選択肢もあります。みんながみんな置かれた場所で咲く必要などどこにもないのです。

良かった本まとめ(2015年下半期)

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