コロッセオは、ローマ帝政期の西暦72年にヴェスパシアヌス帝の命により、4万人の奴隷を使って、ティトゥス帝の西暦80年に現在のイタリアのローマに造られた円形闘技場で、外観は4階建てで、高さ57m、長径188m、短径156m、周囲527mと巨大な建物で、当時収容人員5万人以上を誇ったようです。
実際に目の前で見ると、想像以上の大きさで、とても驚きましたね♪
しかも約2千年も昔に造られたとは本当に驚きです。
↑コロッセオ全体
↑コロッセオ左側拡大
↑コロッセオ右側拡大
英語で競技場を指す colosseum やコロシアムの語源となっていますね。
観客席は、身分・性別により仕切られ、猛獣と剣闘士、または剣闘士同士の凄惨な戦いが見せ物にされたようで、こうした見せ物を提供して庶民の人気を稼ぎ、社会に山積する問題から目をそらせることは、当時の支配者の重要な政策の一つだったようです。
当時はそのような見せ物を庶民は無料で観戦できたようです。
剣闘士は、捕虜となった兵士や解放を目当てにした奴隷で、負けた剣闘士は観客に命乞いをし、観客がその剣闘士の生命を決めることもあったようです。
罪人の処刑も見せ物として行われたようです。
ただ、5世紀の中頃、ホノリウス帝のキリスト教の公認後はこうした血なまぐさい見せ物は次第に下火になったようです。
建設当時の正式名称はフラウィウス円形闘技場とのことで、現在ではローマを代表する観光地で、映画ローマの休日でも主人公たちがバイクのベスパに二人乗りで疾走しますね♪
ヴェスパシアヌス帝が即位した頃のローマは、ローマ大火(64年)やローマ内戦 (68年-70年)の甚大な被害から完全に復興しておらず、ネロ帝が行った放漫財政を正し財政の均衡目指しながら首都の再建を進めている時期で、緊縮政策を取りながら、市民を懐柔するための娯楽施設の目玉として円形闘技場の建設が検討されたようです。
当時、ローマで剣闘士試合を行えるのは木造仮設で仮復旧していた収容人員約1万人のタウルス円形闘技場と、専用施設ではないため仮設の観客席を設ける必要があるサエプタ・ユリアやキルクス・マクシムスしかなかったのも背景にあるようです。
この新円形闘技場(コッロセオ)はネロ帝の黄金宮殿(ドムス・アウレア)の庭園にあった人工池の跡地に建設されることとなったようです。
この人工池の建設時に地表は10m近く掘り下げられて一部は岩盤に達していたため、円形闘技場建設時には基礎工事をいくらか省略することができるというメリットがあったようです。
工事はウェスパシアヌス治世の70年に始まり、ティトゥス治世の80年に、隣接するティトゥス浴場と同時に完成・落成したとのことです。
使用開始に当たっては、100日間に渡り奉献式のイベントが行われ、模擬海戦が行われると共に、剣闘士試合で様々な猛獣5000頭が殺され、数百人の剣闘士が命を落としたようです。
なお、続くドミティアヌス帝の治世中にも施設の拡張工事が続けられ、一般市民や女性が座る観客席の最上層部と天幕が完成した。
地上から50mもの高さに天幕を張るために、ミセヌム海軍基地から派遣された海軍兵士が工事に従事したようです。
構造はローマン・コンクリート(火山灰を利用したコンクリート)で出来ていて、鉄骨を用いないコンクリートにも関わらず幾多の地震の際も崩壊しなかったのは、全体が円筒形で力学的に安定していたためのようです。
素晴らしいですね。
ただ当初は鋼鉄は入れられていたようですが、後世で使用するために引き抜かれたようです。
そのため、コロッセオはたくさんの穴があるように見えるようです。
↑コロッセオの穴
コロッセオの柱の様式には注目のようで、4Fはレンガを積み上げて柱に見立てたコリント式で、かつては日除けの天幕を張るために外壁にロープを渡していたようです。
3Fもコリント式で、柱頭にアカンサスの葉をモチーフにした彫刻が施された柱が特徴で、装飾が細かく、繊細で優美な印象を与えるとのことです。
2Fはイオニア式で、柱頭の左右に垂れ下がる渦巻き模様の彫刻が印象的です。完成当時は各アーチの下に彫像が1体ずつ置かれていたようです。
2Fのもう一つはドーリア式で、装飾の少ないシンプルな柱が特徴で、ドーリア人がもたらした建築様式で、下部へゆるやかにふくらみ力強い形となっています。
ローマ帝国のキリスト教化に伴い血生臭い剣闘士競技は禁止されたようですが、、443年に地震で破損したコロッセオの修復を行ったことを記念する碑文が残され、また地中海西部でのローマ帝国の支配が崩壊した6世紀でも修復の記録が残っていることから、古代末期までは競技場として使用されていたようです。
コッロセオに使用されている建材は、実は中世を通じて白大理石やレンガが他の建築物に流用され、一種の採石場とされていたようです。
その大理石はバチカンのサン・ピエトロ大聖堂にも使用されているようです。
それにもかかわらず往時の姿をとどめているのは、迫害されたキリスト教徒がここで殉教したと伝えられていることから、一種の聖地となっていたためのようです。
ローマ教皇ベネディクトゥス14世によりコロッセオは神聖であるとして保存されるようになったようで、現在外周は半分程度が残っています。
19世紀にようやく歴史的価値が認められ保存体制が進んだようです。
ただ古代の完全な状態に再現しようとする動きはなく、このままの形で保存されていくようです。
1900年を越えた現在ではローマはイタリアの一都市となってしまいましたが、コロッセオは今もって古代ローマの象徴でありつづけていますね♪
なお皇帝席には一日中直射日光が当たらないように設計されていて、また一般の観客席についても一日に20分以上日光が当たらないように工夫がなされていたとは素晴らしいと思います。
それから円形闘技場に入るアーチは全周で80箇所あり、そのうち皇帝や剣闘士専用のものを除く76のアーチには番号が付されていたようです。
これはテッセラ(入場券)にその番号を記して混乱せずに入場できるようにするためのものと考えられています。
なるほど!
初期においては競技場にローマ水道より引いた水を張り、模擬海戦を上演することさえ可能で、後には複雑な舞台装置を設置したためにそのような大規模演出は不可能となったようです。
水を引き込んで海戦もしていたとは驚きですね♪
また人力エレベーターも存在し、剣闘選手の入場に用意されていたようで、現在ではその巻き上げを行った柱の跡が残っているようです。
また、猛獣はせり上げ式で登場させるなど高い技術が用いられていたようです。
エレベーターは80もあり、当時の観客は、どこから猛獣が出てくるのかも楽しみの一つだったようです♪
それから、コッロセオの横には噴水が作られ、それは「メタ・スダンス(汗をかく標識)」といわれ、闘いを終えた剣闘士もここで体を洗ったと伝えられているようです。
なお、コロッセオの隣には凱旋門があり、キリスト教を国教としたコンスタンティヌス帝の時に、戦争に勝って315年にミルヴィオ橋の勝利を記念として建てられたとのことです。
(ただこれには異説もあるようです)
↑凱旋門
↑凱旋門
それから近くには皇帝たちが宮殿を建造した地であるパラティーノの丘が見えます。
↑パラティーノの丘
また少し離れたところには「フォロ・ロマーノ」が見えましたね。
↑フォロ・ロマーノ
イタリアのローマに行った際には、コロッセオ見学はとてもオススメです!
<今日の独り言>
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