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「「理系」で読み解くすごい日本史」(竹村公太郎)という本はとてもオススメ!

 
「「理系」で読み解くすごい日本史」という本は、実は日本は世界12文明の一つで、縄文時代から今までも世界の文明をリードしていて、常に理系力のものづくりの最先端を走っていたということで、その日本文明の奇跡の一端を日本史の中から解きほぐしたものとなります♪
 
具体的には古い時代から以下について書かれていてどれも興味深い内容となっています♪
 
・金色に輝く縄文のビーナス
・現代芸術の巨匠も衝撃を受けた縄文時代の火焔型土器
・三内丸山遺跡の古代の高層建築
・高度な航海術
・日本オリジナルの漆塗り
・世界最大の墳墓「大山古墳(仁徳天皇陵)」
・日本刀の技術
・出雲大社の超高層建築
・世界最古の木造建築法隆寺
・日本酒醸造
・日本刀の製鉄・鍛造技術でつくられた鉄砲
・日本の城
・家康の江戸の都市改造
・江戸時代の和算
・江戸時代の天文学
・吉原移転による堤防強化
・横浜の水の供給
・水力発電による国土復興
・乾電池発明
・トランジスタやダイオードの開発
・青色発光ダイオードの実現
 
特に縄文時代に高層建築があったことには驚きましたし、改めて日本刀の技術は凄いということを認識しましたし、徳川家康による利根川等を東京湾から銚子に移し替えて江戸の町を洪水がない町に開発し、その後の東京の発展の礎となったことは素晴らしいと思いましたね♪
 
「「理系」で読み解くすごい日本史」という本は、改めて理系が大切ということが分かり、とてもオススメです♪
 
以下はこの本のポイント等です♪
 
・世界には歴史的に少なくとも12の文明があった。その中で生き残った文明は5つで、中国文明、インド文明、イスラム文明、西欧文明、そして日本文明であると。さらにハンチントンは、「日本文明には敵対する文明はない。しかし連携する文明もない。日本文明は独立した文明」と断定している。日本歴史、文明は、どうやら世界史、人類史の中でも得意な存在であるようだ。日本は「生き残った」文明の中での唯一の島国。それもユーラシア大陸とは流れの速い対馬海流で隔たれている。世界史の中心のユーラシア大陸の暴力からこの海流が日本を守ってくれた。鎌倉時代の2度の元寇を除いて、ほとんど他国による直接侵略の脅威にさらされることがなかった。日本という国は、縄文時代以前も加えれば、数万年にもおよぶ生活の痕跡を残している。
 
・ハンチントンが著書で挙げた「人類史上の12の文明」には、生き残った5つの文明以外に、メソポタミア文明、エジプト文明、クレタ文明、古代ギリシャ・ローマ文明、ビザンティン文明、中央アメリカ文明、アンデス文明がある。これらの人類史上の文明の中で、特異な「雪国」を抱えているのは日本だけなのだ。広大な大陸であれば、「雪」の季節には温暖な地方に移住すればいいが、中央に脊梁山脈が走り、河川と海峡、山々に遮られる狭隘な日本列島では、そう簡単に移住はできない。人々は、積雪の数か月を雪の中で耐えるほかなかった。この「地勢と気象」が日本人に独特の民族性と文明、文化をもたらした。この民族性と文明、文化は、日本の「ものづくり」の基礎となり、「技術力」「理系力」の基盤となったと考えられる。
 
・縄文土器でとくに目を引かれ、印象が強いのが「火焔型土器」だ。縄文土器は「草創期」と呼ばれる時期を入れると1万年以上前に登場し、それから約8000年間、さまざまな計上のものがつくられた。火焔型土器は、約5千年前から4千年前の縄文時代中期に主に日本海側の各地でつくられた。火焔型土器の最大の特徴は「実用的ではなさそう」ということだろう。非実用的だから宗教的儀式のためにつくられたという説もある。この火焔型土器を見ていると、縄文時代の日本人がどのような「遊び心」を持っていたのかという想像がかき立てられる。
 
・日本では古代に高さ十数メートルほどの「高層建築」がつくられていた。世界の古代文明で、高層建築というと、エジプトのピラミッドが思い浮かぶが、この建設は紀元前2500年頃とされる。ところが、日本の縄文時代の遺跡で現在確認されている建築で古いモノは、約5500年から4000年前のものとされている。ピラミッドとはその構造も大きさも違うとはいえ、年代だけを見れば、エジプト文明よりはるかに古い時代の建築で、古代の日本人が、いかに優れた建築技術を持っていたかがわかる。青森県青森市の「三内丸山遺跡」は3層の掘立柱建築でよく知られている。なにしろ、機械など何もない時代に高さ数十メートルの巨木を6本も立てた。その技術がまずすごい。恐らく「てこの原理」を用いながら、大勢で多数の縄を引いて巨木を立てたのだろう。後の飛鳥時代にも同じような方法で五重塔の「心柱」を立てたという記録がある。
 
・赤漆が塗られた櫛なども出土している。縄文人は漆も利用していたのだ。漆製品は、以前は中国大陸での3600年前くらいの出土品が最も古いと考えられていた。しかし2001年に北海道函館市の「垣ノ島B遺跡」から発見された赤漆塗りの副葬品が約9000年前のものと確認されているそうだ。漆は現代でも「職人技」で製造される高度な工芸品なのに縄文時代の早期(約1万年前~7000年前)からつくられていたというから驚かされる。漆には「抗菌力」や「防腐力」があって木が腐るのを防ぐので古代から利用されたようだ。漆器は英語で「ジャパン」という。漆の技術は紛れもなく日本が世界に誇るオリジナル文化といっていいだろう。
・日本では、古墳時代に築造された前方後円墳の「仁徳天皇陵」がある。この古墳は世界最大の墳墓だ。エジプトのクフ王のピラミッドより、また中国の秦の始皇帝の巨大な陵墓よりその全長と面積において上回っている。仁徳天皇陵は、前方後円墳の墳丘の全長が約486m、面積10万3410平方mの威容だ。古墳の最大長は840mに及ぶ。クフ王のピラミッドは高さ約139mという巨大さと独特の外観だが、底辺の一辺は230mで、秦の始皇帝の陵墓は350m。全長と面積において仁徳天皇陵の方が凌駕している。
 
・日本刀は、その外観、切れ味、構えたときのバランスが世界でも例のない、高度な刀剣として評価される。ヒゲを剃ることもできるほどの繊細な切れ味(お勧めはしないが)、束ねた青竹を切り裂く強靱さ、そして何よりくろがねの深い輝きを秘めた美しさが見る者をどこまでも魅了してやまない。刀匠たちが精魂込めて打った「玉鋼」と呼ばれる日本独自の製法の鉄でつくられていることが、その美観と切れ味、強靱さの原点だが、それだけではない。玉鋼を槌で叩き、水に入れて急冷し、余分な炭素を減らす。そして鋼を組み合わせて、4つの部位で構成する。「芯」となる「心金」、側面の「側金」、峰(棟)の部分の「棟金」、刃部分の「刃金」という4種類の鋼を積み重ね、何度も熱して鍛え接合=「鍛接」を行うのだ。数十回の鍛錬、そして鍛接がおこなわれ、刀の形に打ち延ばされる「素延べ」が施されて、先端を三角に切り落とし、硬い「刃金」だけが刃の側にくるようにする。小槌で形を叩き整えて、加熱、かんな削り、研ぎ、焼き入れ、仕上げをおこなって完成する。これらの工程には、数多くの職人が関わる。刀身をつくる「刀工」、「刀匠」「刀鍛冶」とも呼ばれる。刀身の研ぎをおこなう「研ぎ師」、鞘の製作をおこなう「鞘師」、鍔などの金属部分を製作する「銀師」、そして「柄巻師」、以下、装飾をおこなう「塗師」、「蒔絵師」、「金工師」などだ。それは近代の最先端工業製品の生産ラインの原風景ともいえる。日本刀づくりが、原材料の「砂鉄」の精錬、鋼の加工から仕上げまでの総合芸術であることがわかる。そして、「折れず、曲がらず、よく切れる」日本刀として結実する。
 
・出雲大社が、ほかの神社と大きく異なることは、その「高さ」だろう。現在の社殿も、礎石から屋根の先端の「千木」と呼ばれる交差した木の上端までが、約24mという高さなのだが、歴史にはとんでもない高さであったことが記されている。なんと日本の時代区分で最も古い上古の時代には「高さ32丈」つまり「約96m」だったと、大社の「社伝」には記録されている。社伝はいわば神社自身の「歴史書」だから、ありもしないことを書くとは思えない。ほぼ100mの本殿というと、ワンフロアの天井高が4mであれば、25階建てのビルくらいの高さだ。上古、つまり大化の改新までという時代、約1400年前に超高層神社が存在していたことになる。
 
・国内に数ある五重塔だが、1000年以上の歴史を持つものとなると、現存するのは法隆寺の五重塔以外には2塔だけ。奈良県の室生寺五重塔(建立781~805年ごろ)、京都市の醍醐寺五重塔(同951年)の2塔だ。ただ世界を見回すと、1000年以上その姿を保っている建築物というと、それこそエジプトや中南米のピラミッドくらいで、木造建築で現在まで残されているものは、屋外においてはないとみられている。現代の鉄筋コンクリートなどの建物の寿命が50~60年だというのに、木造で1000年以上、風雨に耐えて屹立しているのだからすごいというほかない。
 
・実は五重塔の地震対策で、スカイツリーとの間に意外な共通点がある。心柱というユニークな構造材が「揺れ」への対策となっている。法隆寺の五重塔は高さ31.5m。スカイツリーほどの高層建築ではない。しかし木造のため地震の揺れや強風は大敵となる。ここに日本の英知が結集していた。五重塔には1000年以上も前に耐震構造が採用されていたのだ。
 
・米を原料として酒をつくる、つまり日本酒づくりが始まったのは、恐らく縄文時代の後期から弥生時代にかけて、水稲栽培が始まるのと同時だったと推定されている。一説では、九州から近畿にかけての地域では、炊いた米を口で噛んで、唾液の酵素で発酵させる「口噛み酒」がつくられていたとも伝わっている。マレーシアの先住民の一部など、知られている限りでは、少なくともアジアではこの酒のつくり方が現代にも継承されている。酒づくりを「醸す」というが、この言葉の語源は実は「噛む」から来ているという説もあるくらいなので、「口噛み酒」は意外に広く行われていたかもしれない。
 
・鉄砲がいつ日本に伝来したのかは諸説あって確定しにくいようだが、いずれにしても海外から伝来した数少ない鉄砲が、日本刀づくりの「刀鍛冶」の高度な技術で短期間のうちに大量に複製され、またたく間に日本全国に広まったという情景が、さまざまな伝承、記録からうかがえる。
 
・日本の城の築造技術の高度さ、そして芸術性の高さは姫路城を代表として、その完成度において世界に比類のないものだ。そして、日本の城は木造でありながら、約400年間、その勇姿を保ち、武士たちのロマンを今に伝える。緻密な設計、天守、櫓、虎口、石垣などの施工技術、耐荷重計算の理系力は、現代の建築技術を超えている。先の熊本の震災後に「石垣一本だけ」で櫓が保たれていた熊本城「飯田丸五階櫓」の姿が、その当時の技術のすごさをいみじくも証明した。城の修復や復元には、宮大工や石工たちに伝わる伝統の技を必要とする。日本の「技と精神」を具現化、集大成し、現代に遺されたのが「日本の城」といっても過言ではないだろう。
 
・徳川家康が江戸を選んだのには、遠大な戦略があった。それは広大な湿地帯の関東平野を豊かな水田地帯に変貌させる構想だ。1590年、豊臣秀吉に強引に移封されて以降、家康は関東平野を歩き回った。地形学者のフィールドワーク並みである。そして利根川の洪水を銚子に向ける地形を発見して、その工事も着手していた。そのため征夷大将軍に任じられた家康は江戸に飛んで帰ったのだ。幼少期から人質とされ、織田信長、豊臣秀吉に仕えて血で血を洗う、下克上の戦国時代を戦い抜いてきた。今、天下を取って、自分がすべてを仕切ることができるとなれば一世一代の事業を推し進める時となった。その最も大きな事業の一つが、江戸を湿地にしていた原因の利根川と渡良瀬川の流れを東に曲げ、江戸を通ることなく、太平洋に直接流入させる大工事だ。この河川工事で、現在の千葉県関宿町(現・野田市北西部)の東側に利根川を流すことによって、東北から関東に攻め入るときの防衛線ともなる。東北には若き戦国大名の伊達政宗がいた。この伊達氏の南進を阻止することもできると家康は考えたかもしれない。この大工事が完成し、利根川の流れが千葉県の東、銚子に向かったのは1621年(元和7年)、3代将軍家光の時代だった。
 
・しかし、江戸幕府は利根川の開削をやめず、1621年に赤堀川(利根川)の拡幅を行い、1654年にはこの川の川底を約5.4mも掘り下げて、利根川は完全に江戸をバイパスした。すでに東北の伊達市の脅威もなくなっていたが、関東平野の大改造という家康の遺訓を幕府は忘れなかったのだろう。利根川の拡幅と掘り下げは継続された。その後も利根川の洪水に見舞われたからだ。1809年、11代将軍家斉の時代には、利根川の川幅は約73mにまで拡幅されたという。実は、明治政府になってからも、利根川(赤堀川)の拡幅工事は継続された。そして21世紀の現在まで利根川の改修は引き継がれている。
 
・やがて、徳川の江戸時代を否定する形で、明治政府が樹立されたが、明治政府はそれまで朝廷が存在した京都で政権を建てたかというと、そうではなく、家康が選び、家康がつくった江戸=東京に新政府を樹立した。家康がいかに先を読んでいたのか、ということを証明するものでもあろう。新たな近代日本の可能性は、江戸幕府二百数十年を超越して、江戸=東京にあったということだ。地形調査の専門技術者であった家康の勝利であった。
 
・江戸幕府は浅草から三ノ輪まで北西方向に高さ3m、幅8m、総延長1.4kmの大堤防を1620年、全国80余州の大名に命じ、わずか60日あまりで完成させた。この堤防によって隅田川の洪水は東へ導かれ、隅田川左岸で水があふれ、右岸の江戸市街を守ることとなった。この堤防は「日本堤」と呼ばれ、現在の台東区の町名ともなっている。その名の由来は全国の大名が「手伝い」をしたので「日本堤」と呼ばれるようになったと伝わっている。
 
・江戸時代から、識字率が当時の世界でも非常に高かった日本では、「読み書き、そろばん」といわれるように「言語能力と数学力」が基本的な知識とされていた。「読み書き」についていえば、19世紀後半の江戸末期に、識字率が「80%」とされるような国家は世界のどこにも存在しなかった。それも階級社会の中で上位とされた武士の子弟だけではなく、町のふつうの子どもたちも、都会でも地方の人々も、読み書きを学ぶ機会があり、勉学が広く奨励されていた。
 
・関孝和(1642?~1708)は和算を広く発展させる方法を生み出した。それまでの算術で用いていた算木を用いず、そろばんも使わずに方程式を解く「筆算」の方法を考案したのだ。紙に「甲」「乙」といった文字係数を書き並べることで多元方程式の解を導き出す方法でこれは画期的だった。この筆算が、日本の数学のレベルを飛躍的に向上させ、和算が中国伝来の数学から独自に発展する道筋となった。関はそのほかに世界に先駆ける高等数学の成果を数多く残した。暦の作成に必要とされた円周率の計算では、1681年頃に小数第11位(途中計算では小数第16位)まで計算した。この求め方は収束の加速法(または補外法)といい、この方法は西洋数学より190年以上早かったことが世界的にも認知されている。また関の没後、スイスの数学者ヤコブ・ベルヌーイが1713年にベルヌーイ数を著書で発表するが、関は生前、すでにベルヌーイ数を発見していた。江戸期の和算のレベル、「読み書きそろばん」の普及度が、明治時代以降の日本の飛躍的成長の基盤となったことは間違いないだろう。
 
・伊能忠敬がおこなった測量が正確だった最大の理由は、緯度、経度を測る天文測量を日本で初めて地図製作に取り入れたことによった。実は、この手法の重要性は、忠敬より80年ほど以前に説かれていた。その論を説いたのは、8代将軍吉宗に仕えた数学者・建部賢弘で、算聖・関孝和の門人だった。これはすなわち、江戸時代の日本の数学力、理系力がかなりのレベルの状態にあり、それが伊能忠敬の大偉業の根底にあったということだろう。
 
・江戸で火災で大きな被害が出ると、幕府は被災者救済に迅速に動いた。明暦の大火後も、幕府は浅草の米蔵の米を1日1000俵提供した。市中数カ所で粥を炊いて無料で配布、罹災した大名、旗本、御家人への資金援助のほか、町中にも「銀子(金銭)」十数万両が支給されたという。被災後の復興のために、木場には常に大量の木材が備蓄され、安価で提供された。江戸が災害を乗り越えて世界一の大都市になった背景には、明暦の大火後の徹底した都市改造とともに、非常時の食料、金銭、木材などの供給システムの完備があっただろう。加えて、町火消のような自助、相互扶助システムがあったかrといえる明治時代になって、町火消は「消防組」へと改組された。そしてその後も、大災害が起こる度に自助組織としてその機能を発揮しているのだ。
 
・江戸時代には現代のような河川法で決められた河川管理者がいなかった。誰かが監視役を務めなければならなかった。江戸幕府はその監視役を江戸の民衆に託す方法を考えたのだ。それは「吉原遊郭」の移転だった。幕府は日本橋の人形町付近にあった吉原遊郭を明暦の大火の復興時に浅草の日本堤に移転させた。それまでに日本堤は辺鄙で寂しいところで、追いはぎなどの事件が起こっていた。吉原遊郭をそこへ移転することで日本堤周辺の景色が一変していった。江戸中の男たちが日本堤の上を新吉原に向かった。吉原へ向かう客たちが、堤防の上をゾロゾロと歩く。これによって堤防は踏み固められ、強化された。堤防のどこかに異常が発生すればお客たちはすぐ役人に告げていった。さらに8代将軍吉宗は、墨田堤に桜の木を植えさせた。これで花見の時期には老若男女の江戸っ子が大勢やって来て堤防を踏み固めた。墨田堤の向島には料亭を誘導して多くの人が集まる江戸でも有数の料亭街となっていった。浅草の浅草寺の日本堤近くには、江戸市中にあった芝居小屋や見物小屋を移転させていった。江戸の芸能、演劇がこの地で盛んになり江戸中の人々が集まる場となっていった。
・1887年(明治20年)、屋井は炭素棒にパラフィン(蝋)を染み込ませることで、湿電池の欠点を克服した「屋井乾電池」を発明した。23歳だった(最終的完成は2年後頃とされる)。世界でも画期的な発明だった。ところが東京物理学校(現・東京理科大学)の職工として働いていた当時の屋井には資金がなく、乾電池の技術についての特許を出願することができなかったという。そのため世界初の乾電池の発明者でありながら「世界最初の乾電池特許取得者」という名誉を得ることができなかった。結果として1888年、ドイツのカール・ガスナーが乾電池の特許を取得している。屋井が日本で乾電池の特許を取得することができたのは1893年だった。
 
・日本の歴史を振り返ると、日本人は常に海外からモノや知識を輸入し、新たな発想と実用性を加えて逆輸出してき。稲作に始まり、仏教建築、日本刀、鉄砲、医学、数学・・・いずれも、輸入されたレベルより数段高いものに磨き上げ、世界に日本流の文化・文明を発信してきた。これからの世界は、これまでの「グローバル化」「拡大主義」から「縮小主義」「サステナブルな社会」にシフトしていく。この未来こそ、まさに日本の「お家芸」の出番といえる。近い未来には「AI(人工知能)」を有効に駆使した「小さなものづくり」の時代になり、日本に脈々と流れている才智の見せ場が来る。日本人は外からの情報や技術に耳を傾け、目を凝らしていくことが大好きであった。その情報や技術を改良していくプロセスで、まったく新しい技術を生み出していった。その根底にある心は、細工して、ものを詰め込んでいくことであった。細工し、詰め込み、ものを小さくする。それが未来の持続可能な文明の原点となっていく。世界の中で小さなものを特別に愛するのが日本人である。この日本人の性向を見直し、評価していくこと。生まれてくる子どもたちに伝えていくこと。私たち日本人が、あらためて日本人を評価し、愛することが、日本人の理系の力を伸ばし、強めていくことになる。その理系の力が未来の社会を支えていくことになる。

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