<金曜は本の紹介>
「手塚先生、締め切り過ぎてます!(福元一義)」の購入はコチラ
この本は、30年以上にわたって手塚治虫さんの漫画編集者、同業者(漫画家)、チーフアシスタントとして携わった福元一義さんが、手塚治虫さんのエピソードについて書いたものです。
具体的には、手塚治虫公式ファンクラブの会報誌「手塚ファンMagazine」に平成14年(2002年)から平成18年にかけて毎月連載された福元一義さんのエッセイ「アシスタントの日記帳」を加筆・修正の上まとめたものです。
特に、手塚治虫さんの漫画にかける情熱、原稿争奪戦、雲隠れ事件、ブラックジャックの裏話、虫プロの倒産、アドルフに告ぐの裏話、死の直前まで情熱をかけたエピソード等には心を打たれます。
手塚治虫ファンにとっては堪らない本だと思います。
とてもオススメな本です!
以下はこの本のポイントなどです。
・またある時、雲隠れしていた先生がやっと捕まったと思うと、締め切り間際にもかかわらず、8本の連載がまったくできていない、ということもありました。その時は当然どの雑誌も順番を譲らなかったので、各社相談の上、まず8本のストーリーを先に作ってもらい、1ページずつ順番にペン入れしてもらうことになりました。仕事部屋の隣に編集者の部屋を取り、1ページ上がるごとに見張りの担当者が交代するという緊迫した状況の中、先生は2日間徹夜敢行ですべての原稿を描き上げてしまったのです。実に驚くべきスピードでした。
・手塚治虫の登場は、それまでの日本の漫画界に革命を起こしました。それはまさに”黒船”のようなものだったと思います。描く道具から、絵のスタイル、コマ割り、アイデアの原点に至るまで、当時の常識がすべてくつがえっていったのです。また、現在では当たり前になっている”専属アシスタント制”も、ストーリー漫画の隆盛にともない、その膨大な執筆量を支えるために、手塚先生が最初に採用したものです。
・手塚番の編集者たちは、少しでも早く自分の会社の原稿を描いてもらうため、さまざまな方法を駆使していました。私などは、”絵が描ける=原稿が手伝える”ということで、いくらか有利だったのですが、これはちょっと例外的なタイプで、編集者の間には、いくつか個性的なタイプがありました。まずは、迫力で原稿を取ろうとするタイプ。編集者本人に迫力がある場合は、手塚先生と面と向かって口論をしたりしていましたが、中には「早く描かないと、私よりもっと怖い編集者が出てきますよ」と匂わせて、圧力をかける編集者もいました。また、印刷所の人間をわざわざ仕事場まで連れてきて、「もう時間がない」と圧力をかける、という方法も実際に使われました。次に、ひたすら手塚先生に張りつくタイプ。自社の原稿に取りかかるずっと前から泊り込み、朝から晩まで先生と顔を合わせておくのです。その間しつこく催促するようなことはせず、長い時間をかけて「待っていますよ」と暗黙の圧力を先生にかけるのです。何度もしつこく「早くお願いします、お願いします」と頼むタイプの編集者もいましたが、手塚先生に対しては逆効果のようでした。
・昭和48年11月にはついに虫プロダクションが倒産。この時ばかりは、会社内の事情にはあまりくわしくなかった私も、組合や債権者との折衝のため、頻繁に外出する先生をそばで見ていて、事態の深刻さを感じていました。手塚先生本人にしてみれば、とても落ち着いて仕事ができるような状況ではなかったと思うのですが、その創作意欲が衰えることはありませんでした。倒産の際に、負債処理で先生を助けた葛西健蔵さん(元アップリカ葛西社長)が、先生が亡くなったあとに新座スタジオの仕事場に訪れた時、「あのたいへんな時でさえ(作品の質に)乱れがなかった。これはたいへんなことですよ」と、述懐されていました。
・「ブラック・ジャック」の新連載にあたり、当時少年誌での執筆が減っていた手塚先生は非常に張り切って、作画資料の医学書を自ら用意したほどでした(ふつう、資料は他のスタッフが買っていました)。この時に先生が購入した高価な3冊の医学書は、連載中ずっと資料として重宝され、いわば作品の”バイブル”となりました。また医療機器等はどういうツテで手に入れたのか、病院向けのカタログを先生から直接渡されていました。
・手塚先生には、アシスタントからその時代の流行や、女性の感覚を吸収しようという目的もあったようで、新作が始まる時や、新しいキャラクターが出てくる時には、女性アシスタントたちに衣装デザインをさせ、作品中に使うこともありました。
・手塚先生の仕事量を、雑誌や出版関係に限って年度別に折れ線グラフにしたら昭和49年~51年の所がいちばん高い山型になるでしょう。当時の忙しさは尋常ではありませんでした。
・「アドルフに告ぐ」の物語は、手塚先生の生い立ちっとピタリ重なって進行しています。舞台も故郷宝塚の御殿山殺人事件から始まって、時間軸に沿って政局や事変、戦争が展開するわけですが、先生自身が時代を肌で感じ、また記憶していただけに本物志向が強く、掲載された舞台が大人の一般誌だったこともあって、アシスタントには「漫画漫画しないでリアルに・・・・」と口癖のように確認されていました。当時(昭和10年代)の風俗やファッション、特定の施設や建造物なども、極力リアルに描くことを心掛けていまいした。
・「仕事をさせてくれ・・・・・」と、死の床で起き上がろうとされた先生の最期を伝聞した時・・・・・やっぱり・・・・・と、告別式の日のことを思い出しました。私は平成元年(1989年)2月12日、火葬場での最後の別れで、棺の窓越しに先生の顔を見た時の印象が忘れられません。あれだけ生命の尊厳を信条とされていた先生が、「医者の不養生」を地でゆくような結果となり、悔しいやら、情けないやらの複雑な感情とともに、いささか腹立たしささえ覚えたものでした。あの納棺の時に見た先生の顔は、いつものように徹夜敢行で締め切りと戦っておられる時、・・・・・「ちょっと20分」、・・・・・「あと15分だけ」と、小刻みに仮眠を挟まれる時の寝顔のようでした。時間が来て遠慮がちに「時間ですけど」と声をかけるとガバッと起き上がり、再び猛烈な勢いで健筆をふるわれるのではと思ったぐらいです。
<目次>
まえがき
第1章 編集者時代
手塚先生との出会い/担当編集者時代/編集者兼アシスタントとして/原稿争奪戦あれこれ/手塚先生の仲間たち-福井英一先生と馬場のぼる先生/馬場先生も怒る/手塚先生と一緒に仕事をすると・・・・・?/手塚版「シラノ・ド・ベルジュラック」/「赤銅鈴之助」誕生秘話
第2章 漫画家時代、そして手塚プロ入社
漫画家生活スタート/横山光輝先生のこと/武内先生のマネージャーに/「マグマ大使」のころ/手塚プロダクションのスタッフに/”1ミリ方眼紙”事件/手塚先生、試行錯誤する/虫プロダクション、倒産/名作「ブラック・ジャック」誕生/「三つ目がとおる」スタート/”幻”になりかけた扉絵/アシスタント採用ウラ話/アシスタントM君のこと/手塚先生と戦争体験について語る
第3章 手塚プロ・高田馬場時代
高田馬場へ引越し/手塚先生雲隠れ事件/オールカラー連載「ユニコ」/見学者あらわる/どこへ行っても漫画・・・・・の手塚先生/スピードの秘密/手塚先生の道具①-ペン/手塚先生の道具②-墨/手塚先生の道具③-紙/”漫画”以外の絵の話/「手塚治虫漫画全集」刊行/トレス台導入される/アニメーション制作、再開/生原稿を破る/アニメと漫画でパンク寸前/海外から原稿を指定する/「火の鳥」ウラ話あれこれ/単行本改変、そして修羅場へ/伝説の「新宝島」/緊張の”切り貼り”/手塚先生倒れる
第4章 「アドルフに告ぐ」の時代
異例の”連載前試写会”/「アドルフに告ぐ」スタート/手塚先生のお母さんのこと/軍歌を歌う/「のらくろ」シンドローム/アシスタント、プラモデルを作る/手塚先生と飛行機に乗る/”コンチクショウ”精神/「ルードウィヒ・B」の題名の謎/絶筆「ネオ・ファウスト」/運命の1989年2月9日/「手塚治虫物語」完成、そして漫画部解散へ
あとがき
本書関連年表
<今日の独り言>
5歳の息子とたまにトランプ遊びをするのですが、最近はババ抜きで自分がババを引いて「あぁぁぁ」と悲しむと、息子は大喜びして笑い転げます^_^;) しかし、どっちがババが、トランプを引こうとすると分かるんですよね・・・。まだまだ正直だ・・・^_^;)
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