阪急交通社が企画する「東海道五十三次 街道をゆく」の第4回目の神奈川宿~保土ヶ谷宿~東戸塚に参加したので、その紹介したいと思います。
今回は神奈川公園に集合で、いつものようにガイドさんのかけ声で、準備体操をして出発します。
↑ガイドさんたち
この日は梅雨明けということで、猛暑でしたね^_^)
この日は何度もくどく言われたのですが、権太(ごんた)坂が本日の難所で、猛暑ですし、無理だと思ったらバス停がある所でリタイヤするようにとのことでした^_^;)
先日もこのコースの権太坂でで数人リタイヤされたようです。
当時も今も難所のようです。
箱根駅伝でも権太坂は有名ですね。
神奈川宿は、東海道有数の景勝地「袖ヶ浦」があり、湊も有名で東海道も通るので交通の要所として栄え、船人や旅人はもちろん、観光で訪れる客も多く滞在し、最盛期には近隣宿の2倍の人口を抱えていたようです。
だから神奈川県という県名になったようですが、現在では想像がつかない繁栄ぶりですね。
今ではもちろんこの神奈川宿辺りもビルが乱立していますが、近隣の横浜の方が神奈川県の中心地として繁栄しています。
昔は横浜の方が村だったようです。
↑浮世絵での神奈川湊
すぐ洲崎大神という神社がありましたが、この参道のすぐ先は湊だったようですが。
今では埋め立てられていて、すぐ海岸だったとは想像がつきませんね。
↑洲崎大神
↑洲崎大神の説明
1858年の日米修好通称条約で、この神奈川は開港の場として定められ、日本で初の各国の領事館などが置かれたようです。
それほど神奈川は、当時重要な地だったということです。
普門寺はイギリスの士官の宿舎だったようで、その説明がありました。
↑普門寺
そして甚行寺は一時フランス公使館にあてられたようで、その石碑もありましたね。
↑甚行寺
それから、京急線を越えると高台に本覚寺があり、ここはアメリカ領事館だったようです。
アメリカ公使ハリスが住んでいたようです。
見晴らしがよく、神奈川宿全体を見回せたようで、さすが良い場所を選んでいますね^_^)
↑本覚寺
そして少し歩くと「大網金刀比羅神社」があり、江戸時代には神奈川湊に関わる人々の熱い信仰を受けていようです。
源頼朝が平氏を倒したお礼に造った神社のようです。
また、ここには一里塚が当時あったようで、江戸の日本橋から7つ目なので、日本橋から約28kmの距離となります。
↑大網金刀比羅神社の説明
それから、少し歩くと左側に「田中屋」がありました。
江戸時代から続く、唯一残った料亭とのことです。
なんと、坂本竜馬の妻である「おりょう」がここで働いていたとは驚きです!
「おりょう」は英語が話せるし、「月琴」も弾けたので、外国人の接待に重宝されていたようです。
坂本竜馬亡き明治時代の話です。
↑田中家
↑田中家などの説明
それから少し歩くと、「関門の碑」がありました。
開港後、外国人が相次いで殺傷されたため、各国領事の強い要望で横浜周辺に設けられたのが関所であるこの関門です。
神奈川宿でも東西の二カ所に設けられ、厳しい警護体制が敷かれたようです。
この碑は西側の関門となります。
当時の写真もあり、興味深いですね。
↑関門の碑
↑当時の写真
いろいろと歴史の勉強になります!
次回は(2)浅間神社~帷子橋跡編となります。
<今日の独り言>
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